2008年4月2日水曜日

株式75

=== フランス ===イギリスと同様、[[ブロック経済]]([[フランブロック]])を形成したフランスは[[ファシズム]]に対抗するため、[[仏ソ相互援助条約]]を締結。そして[[コミンテルン]]の指導を受けた[[レオン・ブルム]]人民戦線内閣を組閣する。
=== ドイツ ===元々、第一次世界大戦の敗戦で各国から巨額の賠償金を請求され、[[ハイパーインフレーション]]や[[フランス]]の[[ルール占領]]などにより極度に弱体化が進んでいた[[ドイツ]]経済は世界恐慌によって深刻な状態へ陥った。アメリカ企業も次々と撤退、少しずつ復興しかけていた経済は一気にどん底に突き落とされた。結果、大量の失業者が街に溢れ国内経済は破綻状態となる。
その中、[[共産主義]]と[[ナチズム]]が台頭。失望した人々の期待を受けて[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチス)が大躍進を遂げ1933年、[[パウル・フォン・ヒンデンブルクヒンデンブルク]]大統領の下で[[国家社会主義ドイツ労働者党]]党首の[[アドルフ・ヒトラーヒトラー]]内閣が成立。[[ドイツ国会議事堂放火事件]]で[[ドイツ共産党]]を弾圧し[[全権委任法]]を成立させる。[[1934年翌年]]、[[大統領]]の死去と共にヒトラーは[[総統]]に就任、[[第三帝国]]が成立した。

株式74

こうした中、[[修正資本主義]]に基いた[[ニューディール政策]]を掲げて当選した[[民主党 (アメリカ)民主党]]の[[フランクリン・ルーズベルトフランクリン・ルーズヴェルト]]大統領は公約通り[[テネシー川流域開発公社]]を設立、更に[[農業調整法]]や[[全国産業復興法]]を制定し、更に[[ラテンアメリカ]]との外交方針を以前の棍棒外交から善隣外交へ転換した。ただ、ニューディール政策は1930年代後半の景気回復を前に規模が縮小されるなどしたため、1930年代後半には再び危機的な状況となった。このため、同政策にどれほど効果があったかについては今日でも賛否両論がある。
アメリカ経済の本格的な回復はその後の第二次世界大戦参戦による莫大な軍需景気を待つこととなる。
=== イギリス ===[[労働党 (イギリス)労働党]]の[[ラムジー・マクドナルドマクドナルド]][[内閣]]は[[失業保険]]の削減など[[緊縮財政]]を敷くがその政策から労働党を除名され、代わりに[[保守党 (イギリス)保守党]]と[[自由党 (イギリス)自由党]]の援助を受けてマクドナルド挙国一致内閣を組閣する。それとほぼ同時期の1931年[[9月21日]]、ポンドと金の兌換を停止、いわゆる[[金本位制]]の放棄を行った。なおイギリスが金本位制の放棄を行ったのをきっかけに金本位制を放棄する国が続出、[[1937年]]6月にフランスが放棄したのを最後に国際的な信用秩序としての金本位制は停止した。勢力にかなりの蔭りが出ていたイギリスでは広大な植民地を維持していくことができず[[ウェストミンスター憲章]]により自治領と対等な関係を持ち、新たに[[イギリス連邦]]を形成、これを母体に[[ブロック経済]]([[スターリングブロック]])を推し進めていくことになる(ただし[[インド帝国]]はブロック経済下でも東アジアと密接な経済関係にあったことが知られる)。

株式73

== 各国の状況 ==未曾有の恐慌に[[資本主義]][[先進国]]は例外なくダメージを受けることになった。[[植民地]]を持っている国(アメリカ・[[イギリス]]・[[フランス]])は様々な政策を採りダメージの軽減に努めたが、持っていない国([[日本]]・[[ドイツ]]・[[イタリア]])はそれができず[[全体主義]]の台頭を招くことになる。第一次世界大戦後、世界恐慌まで続いていた国際協調の路線は一気に崩れ、[[第二次世界大戦]]への大きな一歩を踏み出すこととなった。[[共和党 (アメリカ)共和党]]の[[ハーバート・フーヴァーフーヴァー]][[アメリカ合衆国大統領大統領]]は古典的[[経済学]]の信奉者であり、国内経済において自由放任政策を採った。その一方で[[1930年]]には[[スムート・ホーレー法]]を定めて保護貿易政策を採り、世界各国の恐慌を悪化させた。[[1931年]]、オーストリア最大の銀行が倒産してヨーロッパ経済の更なる悪化が予想されたことに対しようやく[[フーヴァーモラトリアム]]と称される支払い猶予を行ったが、既に手遅れであり恐慌は拡大する一方だった。[[1932年]]後半から[[1933年]]春にかけてが恐慌のピークだったようで恐慌発生直前と比べて株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した。閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止、社会主義革命の発生すら懸念された。

株式78

この間「[[満州]]は日本の生命線である」と言った言葉の通り、日本は大陸進出へと進んでいくことになる。ドイツやイタリアのようにファシズムを唱える政党の躍進はなかったものの軍部の発言力は強まり、政府を無視して[[満州事変]]を引き起こしさらに[[五・一五事件]]で政党政治の幕引きをし、[[ワシントン海軍軍縮条約]]、[[ロンドン海軍軍縮会議ロンドン海軍軍縮条約]]の破棄、[[二・二六事件]]、[[日独伊防共協定]]の締結、そして[[日中戦争]]、第二次世界大戦という経緯で[[十五年戦争]]に突入していく。
=== ソ連 ===ソ連は[[社会主義]]国家だったため、主要国の中でただ一国世界恐慌の影響を全く受けず非常に高い経済成長を続けた。以後、[[ヨシフ・スターリンスターリン]]の推進する[[五カ年計画]]で着々と工業化を進めていった。

株式77

=== 日本 ===大戦後の恐慌、[[関東大震災]]、[[昭和金融恐慌]]([[昭和恐慌]])によって弱体化していた日本経済は世界恐慌発生とほぼ同時に行った[[金解禁]]と生糸などの輸出が落ち危機的状況に陥る。株の暴落により都市部では多くの会社が倒産し失業者があふれた。農作物は売れ行きが落ち価格が低下、冷害・凶作のために疲弊した農村では娘を売る[[身売り]]や[[欠食児童]]が急増して社会問題化。生活できなくなり大陸へ渡る人々も増えた。
国民が困窮する中、[[労働者]]や[[小作農]]の立場に立つ[[政党]]が,代表者を[[国会]]に送るようになり[[労働争議]]や[[小作争議]]が増え、政府は[[治安維持法]]を改めて最高刑を死刑にし、[[特別高等警察]]を全国に設置して[[社会主義運動]]の取締りを強化。
[[高橋是清]]蔵相による積極的な歳出拡大(一時的軍拡を含む)、円の[[切下げ]]、アジア貿易への依存、[[重工業]]化へ向けた官民一体の経済体制転換を打ち出す。安価な綿布や雑貨を大量に輸出して1930年代後半には世界に先駆けいち早く大恐慌前の水準を回復したが、[[ブロック経済]]政策をとる欧米諸国との[[貿易摩擦]]が起こった。この間にも[[財閥]]は産業界を支配し、利権を求めて政治や軍に対する影響力を強めた。その後も目白押しの大規模プロジェクトなどで経済的成長が図られたが、資源配分転換と国際協調を背景にした[[軍縮]]への軍部の抵抗を止められず[[太平洋戦争]]へと向かうことになる。

株式76

ヒトラーはソ連での[[計画経済]]の成功を受けて作成された[[:en:Four Year Plan四カ年計画]]に基づき[[軍拡]]と[[公共事業]]の拡大([[アウトバーン]]の建設等)を実施した。また、民間の重工業化を支援した。二次に亘るこの計画により失業者は劇的に減少し、経済的な回復は達成された。
その後、[[ヴェルサイユ条約]]、[[ロカルノ条約]]を相次いで破棄、[[ラインラント]]に軍隊を進駐させる。
=== イタリア ===第一次世界大戦直後から経済混乱に陥り[[ファシスト党]]の一党独裁が始まっていたイタリアでは世界恐慌後も更にその傾向を強め、[[エチオピア]]を侵略した。

株式73

日本でもアメリカのグラス・スティーガル法と同様に[[証券取引法]]第65条が銀証分離を規定していた。しかし、アメリカと同様に緩和され、銀行子会社の証券業務参入が認められた。それから、みずほFGや[[三菱UFJフィナンシャル・グループMUFG]]などの[[都市銀行]]を母体とする[[金融持株会社]]が出現し、商業銀行と投資銀行を傘下に置いている。
さらに、[[2006年]]度に証券取引法とその他の金融商品に関する法律を合わせて抜本改正された[[金融商品取引法]]([[投資サービス法]]も内包)が可決された。これにより、銀証分離規定が廃止され、銀行による証券業務参入と証券会社による銀行業務参入が自由化された。そして、欧州型のユニバーサルバンクへの道が開かれることになり、国内メガバンクも[[ドイツ銀行]]グループや[[UBS]]のような世界的な金融グループへの発展が現実味を増している。